なぜ、実験ノート裁判を起こしたのか?

第一次実験ノート裁判が提訴された理由
2012年9月4日

2005年と2006年、国(独立行政法人)は、新潟県上越市で、多くの住民の反対を押し切って、日本で最初の遺伝子組換えイネの野外実験を強行しました。


http://blogs.yahoo.co.jp/miya151a/GALLERY/show_image.html?id=7343674&no=19



     

多くの住民がこの野外実験に反対した最大の理由は、この遺伝子組換えイネはディフェンシン耐性菌という人類と地球環境に大変な危険をもたらす可能性を持つ新たな生物を生み出すからです(->この警鐘を鳴らした耐性菌研究の世界的研究者平松啓一順天堂大学教授の意見書、最初のこの危険性の警鐘を鳴らした金川貴博京都学園大学教授の論文参照)。
そこで、住民は、この野外実験の中止を求めて、なおかつこの野外実験の危険性を明らかにするために、裁判を起こしました(->その公式サイト「禁断の科学裁判」)。


その中で、多くの問題点が明らかにされました(->「科学者の声参照)。しかし、被告(独立行政法人)は最後まで、この実験の核心部分を決して明らかにしようとしませんでした。

他方で、かつて日本の裁判所では傍聴者はメモを取ることさえ禁じられていましたが、「それはおかしい」と一人の外国人が1985年に訴訟を起こし、それから4年後日本の裁判所を変えました。傍聴席で自由にメモができるようになったのです(法廷メモ訴訟)。それがローレンス・レペタさんです。

レペタさんは、この危険な遺伝子組換えイネの実験に関心を抱き、2007年、国(独立行政法人)に対し、この実験データを記録した実験ノートの情報開示の請求を行いました。しかし、5年後の2012年、国(独立行政法人)は、この実験データが記録されている実験ノートは情報公開の対象である法人文書に当たらないという理由で情報公開を拒否しました。
そこで、「実験ノートを私物のように考え、情報公開の対象に当たらないという判断はおかしい」と、2012年6月、その処分の取消しを求めて東京地裁に提訴しました。

これが第一次実験ノート裁判です。

 -->実験ノートの開示請求手続(第一次)&第一次実験ノート裁判の提出書面


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